「10着」で足りると気づく——ジェニファー・L・スコット『フランス人は10着しか服を持たない』に学ぶもの選び

クローゼットは服で埋まっているのに、着る服がない

朝、クローゼットの前で「着る服がない」とつぶやいたことが何度もある。ハンガーは服で埋まっている。それでも、今日これを着たいと思える一着がなかなか見つからない。仕方なく無難なものを引き抜いて、家を出る。似たようなシャツが増えていくのは、たぶんこの繰り返しのせいだ。

『フランス人は10着しか服を持たない』は、その悩みに真逆の答えを出す本だ。足りないのではない、多すぎるのだ、と。もっと買えば解決すると思っていた問題が、実は数を減らすことで消えていく。読み終えて、僕はクローゼットを開け直したくなった。

ジェニファー・L・スコットという人——パリ留学と「マダム・シック」

著者のジェニファー・L・スコットは、南カリフォルニアで育ったアメリカ人だ。大学在学中にパリへ交換留学し、あるお金持ちの一家にホームステイした。その家の女主人を、彼女は本書で「マダム・シック」と呼ぶ。品のいい暮らしぶりを間近で見て、アメリカでの自分の生活との違いに驚いた——そこがこの本の出発点になっている。

帰国後、彼女は『The Daily Connoisseur』というブログを立ち上げた。connoisseur とは目利き、良し悪しの分かる人という意味だ。暮らしの質をめぐる発信を続けるうちに、そのブログで書いた「パリで学んだ20のこと」という連載が、読者の大きな反響を呼ぶことになる。

一本のブログ連載が、世界的ベストセラーになるまで

話がおもしろいのは、この本の成り立ちだ。反響のあった連載をまとめて、彼女はまず2011年に自費出版した。すると CNN やニューヨーク・タイムズ、英デイリーメールが取り上げ、無名の個人の本が一気に話題になる。その後サイモン&シュスターという大手と契約し、2012年に正式なハードカバーとして刊行された。日本語版は2014年、大和書房から神崎朗子さんの訳で出ている。240ページの、留学時代を振り返る回想録だ。

派手な理論があるわけではない。版元の紹介文が挙げる柱は、満足のいく食事のために間食をしない、ワードローブは10着に絞る、ミステリアスな雰囲気をまとう、教養を高める——といった、暮らしの手ざわりに関わる具体的な習慣ばかりだ。大きな思想ではなく、日々の小さな選び方の集まりが、その人の質をつくる。この本はそういう立場を取っている。

ジェニファー・L・スコット『フランス人は10着しか服を持たない』(大和書房)
ジェニファー・L・スコット『フランス人は10着しか服を持たない』(大和書房) 書影
パリ留学で出会った「マダム・シック」に学んだ、少ない服で上質に生きる知恵。10着のワードローブと、日常を味わい尽くす暮らしの美学を綴った一冊。
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「10着」という制約が、選ぶ目を鍛える

この本でいちばん有名なのが、タイトルにもなった「10着のワードローブ」だ。オフシーズンを別にして、よく着る服を10着ほどに絞る。少なく聞こえるが、要点は数そのものではない。数を絞ると、一着に求める基準が自然に上がるところにある。

10枚のうちの1枚なら、妥協した服を混ぜている余裕はない。素材、形、色、どれも本当に好きで、何度着ても飽きないものだけが残る。逆に、100枚あると1枚くらい失敗してもいいかと財布の紐がゆるむ。選択肢が多いほど、一つひとつの選択は雑になる。制約は不自由に見えて、実は選ぶ目を鍛える装置なのだと、この本を読むと分かる。

名品図鑑をやっていて、僕はこの感覚が腑に落ちる。あれもこれもと並べるより、これは、と言い切れるものだけを選び抜くほうがずっと難しい。数を減らすというのは、選ぶ責任を自分に引き受けることでもある。

我慢ではなく、上質を選ぶ

気をつけたいのは、この本が禁欲やケチの勧めではない、という点だ。間食をしないのは、体型のためというより、次の食事をきちんとおいしく食べるためだ。だらだら食べ続けるのをやめて、一回の食卓を丁寧に整える。減らした先にあるのは我慢ではなく、質の高い満足のほうを向いている。

服も同じだ。10着に絞るのは持たない自慢のためではなく、その10着を最高の状態で着るためだ。少ないから手入れが行き届き、傷めば直し、長く付き合える。安く速く買い替えて、どれも中途半端に古びていく暮らしとは、時間の流れ方が違う。

これは服やごはんの話に見えて、もの選び全体の姿勢の話だと思う。増やすことで安心を買うのか、絞ることで質を上げるのか。どちらの豊かさを選ぶか、という問いだ。

日常の雑事にこそ、暮らしの質が宿る

もう一つ、この本が繰り返すのは、特別な日ではなく普段の日をどう過ごすかだ。朝の身支度、片づけ、食器を洗うといった、避けようのない雑事。そこを面倒な作業として流すのか、その一つひとつに気を入れるのかで、暮らしの質は変わってくる。マダム・シックの家がまとっていた品の良さも、たぶん特別なごちそうではなく、こうした日常の細部の積み重ねだったのだろう。

いいものを選ぶことは、この日常と地続きだ。気に入った器で食べれば、洗いものすら少し楽しくなる。手になじむ道具があれば、面倒な家事の手数が減る。ものを選ぶとは、この毎日を過ごす道具立てを整えることであって、見栄えのいい持ちものを集めることではない。読みながら、僕はそう考え直した。

何を持つかは、どう生きるか

『フランス人は10着しか服を持たない』は、着回し術の本のようでいて、その実、もっと大きなことを問うている。何を持ち、何を持たないか。その線引きが、そのまま自分の暮らし方になる。持ちものは、生き方の縮図なのだ。

次にクローゼットや棚の前で迷ったら、もう一着足す前に、いま持っているものを見直してみようと思う。本当に好きで、長く付き合いたいものだけを残す。数を減らして質を上げる——その一回の選択が、たぶん毎日の手ざわりを少しずつ変えていく。少ない服で豊かに暮らす、という逆説を、この本は気持ちよく裏づけてくれる。

次回は山口周『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』。正解のない時代に、論理ではなく美意識でものを選ぶこと——目利きの軸を、今度はビジネスの視点から考えます。

本を選ぶ目と、道具を選ぶ目は、地続きです。
この続きは、こちらでも。

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