森茉莉『贅沢貧乏』

贅沢というと、金がかかるものだと僕らはつい思う。だが森茉莉という人は、その前提そのものをひっくり返してみせた。家賃も払えないほど困窮していながら、紅茶と薔薇と自分の空想だけで、部屋をヨーロッパの宮殿に変えてしまう。今回はその代表作『贅沢貧乏』を読む。

森茉莉という人

森茉莉は1903年、森鴎外の長女として生まれた。鴎外にとって初めての子で、溺愛されたことはよく知られている。自らフランス語の童話を訳して聞かせ、パンにバタを厚く塗って与えたという逸話が残っている。甘やかされて育った幼少期は、後年の彼女の美意識の土台になった。

1919年、鴎外の紹介でフランス文学者・山田珠樹と結婚し、1922年には夫の留学に同行してパリに一年ほど暮らした。鴎外はこのとき既に死期が近く、山田家に何度も足を運んで娘の渡欧を実現させたという。パリでの一年は、後の茉莉の美意識に消えない像を焼きつけることになる。その後離婚し、二度目の結婚生活も長くは続かなかった。晩年の茉莉は、東京の狭いアパートでひとり、猫とともに困窮した暮らしを送っていた。

『贅沢貧乏』はどんな本か

茉莉が随筆家として世に知られるようになったのは50代を過ぎてからだった。1957年、父についての回想記『父の帽子』で日本エッセイスト・クラブ賞を受けたものの、それだけで生活が成り立つわけではない。転機になったのは1960年、師と仰いだ詩人・室生犀星が『婦人公論』の連載でひとりの人物として「森茉莉」を取り上げたことだった。これをきっかけに随筆の依頼が舞い込むようになり、同じ年、雑誌『新潮』に発表したのが表題作「贅沢貧乏」である。

内容は、家賃も滞りがちな狭いアパートの一室を、自分の空想力だけでどう豪奢な空間に変えてしまうかという記録だ。安物の食器も、擦り切れた壁掛けも、彼女のフィルターを通すと本物のゴブラン織りやフィレンツェの名品に見えてくる。貧しさを嘆く随筆ではなく、貧しさの中でどこまで贅沢でいられるかを試した、実験記録に近い一冊だ。

だいたい贅沢というのは高価なものを持っていることではなくて、贅沢な精神を持っていることである

『贅沢貧乏』(「ほんものの贅沢」)

この一文に、この本のすべてが要約されている。茉莉にとって贅沢とは所有の量ではなく、物の見方の質だった。金がないことは、彼女にとって美意識を発揮するための制約ではあっても、それを諦める理由にはならなかった。

僕らは何かを我慢するとき、贅沢は先送りにするものだと考えがちだ。だがこの一文は、贅沢は今この瞬間の精神の持ちようで決まると言い切っている。それは開き直りではなく、ひとつの生き方として選び取られたものだったのだと思う。

冬の長い下着を絞る時の魔利の恰好は、ラオコオンの彫像よろしくで――蛇に巻きつかれて、腕、腰、胴をよぢり、空を仰いで苦悶してゐる三人の男の彫刻である――肱に引つかけてまだ餘つたのは肩にのせて、異様な形で渾身の力を振り絞るのである。

『贅沢貧乏』

冬の長い下着を絞る自分の格好を、ギリシャ彫刻のラオコオン像になぞらえてしまう。惨めなはずの家事の一瞬を、こういう比喩でひとりの喜劇に変えてしまう感性が、この人の凄みだと思う。

貧乏暮らしの実感を、悲惨さでなく可笑しさとして描く。自分自身を突き放して眺める視線の強さが、この随筆をただの貧乏自慢にも、ただの憐れみの記録にもしていない。

夢を現実より上に置く——森茉莉のこの感覚は、単なる現実逃避とは違う。茉莉にとって空想は、貧しい生活を耐えるための麻酔ではなく、生活そのものを組み立て直すための材料だった。

手元にある現実の乏しさを嘆く代わりに、想像力の側から現実を上書きしてしまう。この順番の逆転が、彼女の随筆をただの私小説的な貧乏話から遠いところに置いている。

森茉莉『贅沢貧乏』(講談社(講談社文芸文庫))
森茉莉『贅沢貧乏』(講談社(講談社文芸文庫)) 書影
森鴎外の娘が、家賃も滞りがちな狭いアパート暮らしの中で、紅茶と薔薇と自分の空想力だけで王国を作った随筆集。
※ PR(リンクに広告を含みます)

贅沢は、財布の中身では決まらない

茉莉は晩年になってようやく文章で評価された人だった。だが彼女はずっと、誰に見せるでもなく自分の部屋の中だけで贅沢を実践し続けていた。その意味で『贅沢貧乏』は、生活が苦しくなったから書かれた本ではなく、ずっと実践してきたことをようやく言葉にした本なのだと思う。持っているもので測るか、持っている目で測るか。その差だけで、人生の手触りはずいぶん変わってくる。

次回は、児童文学の翻訳者として知られる石井桃子を取り上げる。派手さのない暮らしの中で、言葉と時間にどう向き合った人だったのかを読む。

本を選ぶ目と、道具を選ぶ目は、地続きです。
この続きは、こちらでも。

🏺 暮らしの名品図鑑を見る →📚 目利きの本棚(一覧)→
この記事をシェアする
  • URLをコピーしました!

続きはSNSでも

写真つき商品コレクションと、30代独身の暮らし語録を更新中。

この記事を書いた人

目次