クマのプーさんの日本語訳は、原文の柔らかさをそのまま移していて、いま読んでも古びない。訳したのは石井桃子という人で、1907年から2008年まで、101年を生きた。児童文学の翻訳者であり作家であり、晩年まで東京・荻窪の自宅で子どものための小さな図書室を開いていた人だ。
石井桃子という人
石井桃子は埼玉県浦和の生まれで、日本女子大学英文学部を出たあと文藝春秋社に入り、永井龍男のもとで『婦人サロン』『モダン日本』の編集をしていた。プーさんとの出会いは仕事を離れた場所にあった。1933年のクリスマスイブ、犬養家で原書に出会って感銘を受け、犬養道子や康彦、病床にあった小里文子のために少しずつ訳し始める。それが1940年、岩波書店から『クマのプーさん』として世に出た。
戦争が終わったのも彼女の人生の分岐点だった。食糧難のなか、終戦の日である1945年8月15日、宮城県栗原郡鶯沢村で友人と土地を開墾し、農業と酪農を始めている。のちに「ノンちゃん牧場」と呼ばれることになるこの場所での日々を経て、1947年に東京へ戻り、岩波書店で少年文庫の編集にあたった。1951年には創作『ノンちゃん雲に乗る』で第一回芸術選奨文部大臣賞を受けている。1958年、荻窪の自宅の一室に児童図書室「かつら文庫」を開いた。最初に本を借りに来たのは、作家・阿川弘之の長男だったという。
『新しいおとな』はどんな本か
『新しいおとな』は、かつら文庫での実践と、幼い日からの読書体験をもとに書かれたエッセイを集めた一冊だ。河出文庫版は1941年から2007年まで、六十六年にわたって書かれた文章から編まれている。子どもの本をどう選ぶか、大人は子どもとどう向き合うか、という問いが、抽象的な理論ではなく、かつら文庫に来る子どもたちを実際に見てきた人の言葉で語られている。
子どもといっしょに笑い、子どもといっしょに胸をうずうずさせることのできるおとなが、身辺にだんだんふえてきているような気がする
『新しいおとな』この一文は1966年に書かれたものだが、石井桃子はここで大人を励ましているわけではない。ただそう感じる、と書いているだけだ。子どもと一緒に笑える大人が増えている、という観察を、確信ではなく手触りとして差し出している。断定しないことで、逆に長く読める文章になっている。
かつら文庫を七年続けたあとにこの文章を書いていることを思うと、これは机上の理想論ではなく、実際に子どもたちを迎え入れ続けた七年間の実感だとわかる。理屈より先に、目の前の子どもがどう笑うかを見てきた人の言葉だ。
子どものなかにはそのようなふしぎを半ば信じ、半ば望む気もち、そうであるふりを楽しむ気もちなどがいりまじって住んでいるからです
『新しいおとな』ファンタジーについて書いた文章の一節で、石井桃子は子どもの心を単純化しない。信じているのか、そうでないのか、というふうに割り切らずに、半ば信じ、半ば望み、ふりを楽しむという、いくつもの気持ちが同時に住んでいる状態をそのまま書いている。
クマのプーさんやピーターラビットの翻訳を長く手がけてきた人らしい観察だと思う。子どもの本をつくる仕事は、子どもをひとつの型にはめないところから始まるのだろう。
入学試験は、いかにつらくとも、おそろしくとも、若者の一人一人が、キンチョウして、単身出かけたほうが、りっぱではありませんか
『新しいおとな』受験に親がついていく風潮への違和感を書いた一節だ。石井桃子は、つらさやおそろしさを取り除いてやることを親切だとは考えていない。一人で緊張して出かけていくことのほうが、りっぱだと言い切っている。
生涯独身で、家族を持たなかった石井桃子が、子どもの自立をこれほどまっすぐに肯定しているのは筋が通っている。子どもを守ることと、子どもを一人前として扱うことは、彼女のなかでは矛盾していなかったのだろう。

百一年、子どもの側に立ち続けた
石井桃子は2008年に101歳で亡くなるまで、子どもの本と子どもの心のそばにい続けた。文藝春秋社の編集者から、疎開先での開墾、岩波少年文庫の編集、荻窪の小さな図書室まで、肩書きは変わっても向いている方向は変わっていない。子どもをどう喜ばせるか、子どもをどう一人前として扱うか、という問いを一生かけて考え続けた人だった。
次回は、料理と暮らしの随筆で知られる辰巳芳子を取り上げる。

