岡本かの子『老妓抄』|奔放に生きた作家が書いた、老いと生の輝き

岡本かの子さんは、夫に、自分の若い愛人と同じ屋根の下で暮らすことを認めさせた人でした。芸術家・岡本太郎の母であり、放蕩な夫との歳月を仏教への傾倒で生き抜いた、かなり特異な生涯を送っています。

そして47歳で小説家としてデビューすると、49歳で急逝するまでのわずか数年で、堰を切ったように傑作を書きました。今日はその代表作『老妓抄』を入り口に、老いと生きることについて考えてみます。

岡本かの子さんという人

岡本かの子さんは1889年、東京の裕福な商家に生まれました。与謝野晶子の流れをくむ歌人として若くして世に出て、21歳のとき、漫画家の岡本一平さんと結婚します。翌年に生まれたのが、のちの岡本太郎さんです。

ところが夫の放蕩に苦しんだ末、夫婦は肉体関係を絶つ誓いを立て、キリスト教を経て大乗仏教へ深く傾倒していきます。やがて一平さんは、妻の若い愛人が家に同居することを公認しました。ふつうの物差しでは測れない家庭です。

仏教研究家として経典や仏教美術を論じ、夫と息子を連れて三年に及ぶヨーロッパ外遊もしています。そして小説家としての開花は、人生の最後の数年に一気に訪れました。書いて、書いて、書ききって、49歳で世を去った。濃い、という言葉がこれほど似合う人もいません。

『老妓抄』という本

『老妓抄』の主人公は、財を成した年配の芸妓・小そのです。彼女は、電気技師を目指す貧しい青年・柚木の生活をまるごと援助し、面倒をみます。しかし柚木は、その手厚さがかえって息苦しく、幾度も逃げ出してはまた連れ戻される。

その執着は、恋なのか、母性なのか、自分でも分からない。老いてなお満たされない欲望と孤独が、静かな筆致で描かれます。何不自由ないはずの人の心に漂う空白を、岡本かの子さんはまっすぐに見つめました。

彼女は真昼の寂しさ以外、何も意識していない。

岡本かの子『老妓抄』(青空文庫)

物語の冒頭、財のある老妓が、目的もなく真昼の百貨店をさまよう場面の一文です。欲しいものは何でも買えるのに、心には寂しさだけがある。

これは、今の僕たちにも他人事ではありません。手持ち無沙汰にスマホで買い物をして、届いた瞬間にもう興味を失う。満たされているはずなのに漂う空白を、岡本かの子さんは八十年以上前に言い当てています。

何人男を代えてもつづまるところ、たった一人の男を求めているに過ぎないのだね。

岡本かの子『老妓抄』(青空文庫)

たくさんの恋を重ねてきた老妓が、若い芸妓たちに漏らす述懐です。結局はたった一人を探しているだけなのだ、と。

理想を求めて選び続けるほど、本当に欲しいものから遠ざかっていく。これは恋愛だけの話ではありません。選択肢が多すぎる今の暮らしそのものへの、鋭い一言だと思います。

一途であること、老いること

仕事であれ、男女の間柄であれ、混り気のない没頭した一途な姿を見たいと思う。私はそういうものを身近に見て、素直に死にたいと思う。

岡本かの子『老妓抄』(青空文庫)

老妓が青年に向けて語る、痛切な望みです。損得や効率をすべて脇に置いた、混じり気のない一途さ。それを間近で見て死にたい、と彼女は言います。

何にでも保険をかけ、いつでも引き返せるようにしておく。そんな身のこなしが賢いとされる時代に、この言葉はまぶしく響きます。一つのことに没頭する姿こそ美しい——それもまた、一つの目利きなのだと思います。

年々にわが悲しみは深くして いよよ華やぐいのちなりけり

岡本かの子『老妓抄』(作中に引かれた短歌)

作中に置かれた、岡本かの子さん自身の心を映したとされる一首です。年を重ねるほど悲しみは深くなる。それでも、いのちはいよいよ華やいでいく——。

老いを消そう、若く見せようとするのが当たり前になった今、この歌はまるで逆を向いています。悲しみも老いも抱えたまま、むしろそのぶん命は輝く。奔放に生き切った人が最後に残した言葉だからこそ、深く残ります。

岡本かの子『老妓抄』(新潮文庫)
岡本かの子『老妓抄』(新潮文庫) 書影
財を成した年配の芸妓・小そのが、電気技師を目指す青年・柚木の生活を一方的に援助し、彼が息苦しさから逃げてはまた連れ戻される——その関係を描いた中編小説。恋とも母性ともつかない執着のなかに、老いてなお満たされない欲望と孤独が浮かびます。1938年、中央公論に発表された岡本かの子の代表作。末尾には、老いと生を逆説的に結ぶ有名な短歌が添えられています。
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次回は、放浪と貧しさのなかから筆一本で這い上がった作家・林芙美子さんの『放浪記』を取り上げます。

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