『魯山人味道』は、書も絵も篆刻も陶芸も料理も独学で極めた北大路魯山人が、食と器について書き残した随筆を集めた一冊です。今回取り上げる「食器は料理のきもの」は、そのなかの短い一篇。魯山人は会員制の料亭「星岡茶寮」で、料理に合う器がなければ自分で焼く、というところまでやり切った人でした。料理人であり、陶芸家であり、なにより日本屈指の目利きです。
語り口はかなり辛口で、断定も多い。けれど言っていることは一貫して具体的で、「器と料理と暮らしを、どういう目で見るか」がまっすぐ書かれています。新字新仮名で読みやすく、青空文庫でも全文が読めます。もの選びの目を鍛えたい人に、目利きの本棚の十八冊目として置きます。
北大路魯山人という人物
北大路魯山人(きたおおじ・ろさんじん)。一八八三年、京都・上賀茂の社家に生まれました。篆刻家として世に出たあと、書・日本画・陶芸・漆芸、そして料理へと独学で分野を広げていきます。東京に開いた会員制料亭「星岡茶寮」では、主人でありながら自らも厨房に立ち、自分で作った器に料理を盛りました。晩年は北鎌倉に星岡窯を築いて作陶に打ち込み、人間国宝の内示を辞退した逸話も知られています。一九五九年没。「器は料理の着物」という言葉は、いまも料理と器の世界で語り継がれています。
器は、料理のきもの
この随筆の主題を一言でいえば、そのタイトルそのものです。
食器は料理のきもの
北大路魯山人『魯山人味道』(中公文庫)所収「食器は料理のきもの」/青空文庫
きものは着物。料理に何を着せるかで、器を選ぶ。中身をどう見せたいかが先にあって、それに合う器を選ぶ、という順番です。「器は料理の着物」とも語られる有名な一節ですが、正式な表題は「食器は料理のきもの」。もの選びとは本来この向きで、器そのものの派手さではなく、盛るものへの敬意で選ぶ——そう置き換えると、毎日の食卓にもそのまま使えます。
料理と器は、夫婦のようなもの
魯山人は、料理と器の関係をこう書いています。
食器と料理は、どこまで行っても、離れることのできない密接な関係にあります。この両者は夫婦のような関係にあると言えましょう。
北大路魯山人『魯山人味道』(中公文庫)所収「食器は料理のきもの」/青空文庫
ものは、単体では決まりません。器は料理と、料理は器と、たがいに引き立て合ってはじめて生きる。これは食卓に限らず、器と棚、家具と部屋、道具と手のあいだにも当てはまります。良いものを一つ買うより、手持ちとの相性を見て選べる人のほうが、暮らしはずっと整う。取り合わせを読む目こそ、目利きの正体だと思います。
品は、線に出る
包丁の使い方について、こんな一節があります。
気の利いた人がやると、気の利いた線が庖丁の跡に現われ、俗物がやると俗悪な線が残る。〔中略〕要するに上品な人がやれば、上品な線になり、上品な姿を現わします。
北大路魯山人『魯山人味道』(中公文庫)所収「食器は料理のきもの」/青空文庫(前後の二文を〔中略〕でつなぎました)
切り口の一本の線にまで、その人の品が出る、という話です。品は、隠そうとしても隠せない。所作にも、選ぶものにも、作り手や使い手の人柄がそのまま現れます。上質かどうかを見抜くというのは、値段やブランドを当てる作業ではなく、この“出てしまう品”を読むこと。目利きが最後に見ているのは、たぶんここです。
ものには、つくった人が出る
そして魯山人は、本のなかでこう言い切ります。
これを要するに、書でも絵でも陶器でも料理でも、結局そこに出現するものは、作者の姿であり、善かれ悪しかれ、自分というものが出るのであります。
北大路魯山人『魯山人味道』(中公文庫)所収「食器は料理のきもの」/青空文庫
器を選ぶというのは、つまるところ、作った人の姿勢を選ぶこと。丁寧に作られたものは丁寧さが、手を抜いたものは手抜きが、そのまま形に残ります。名品を選ぶとは、ものの向こうにいる作り手の誠実さを選ぶことだ——魯山人の辛口は、最後にそこへ着地します。お茶も料理もやらなくても、この見方は明日の器選びからそのまま使えます。

次回の「目利きの本棚」も、いま読める本や読み継がれてきた名著から、もの選びと暮らしのヒントになる一冊を紹介します。
本を選ぶ目と、道具を選ぶ目は、地続きです。
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