割り切らないほうが、よく見える——河合隼雄『こころの処方箋』に学ぶ、奥行きで選ぶ目

私たちは、はっきりした答えがほしい。この買い物は正解か不正解か、この人は良い人か悪い人か、この選択は百点か零点か。星の数やレビューの点数に安心するのも、白黒をつけてくれるからです。

でも、ものを選ぶことも、人と付き合うことも、たいていそんなにきれいに割り切れません。その「割り切れなさ」とどう付き合うかを、逆説のことばで教えてくれる本があります。臨床心理学者・河合隼雄さんの『こころの処方箋』。目利きの本棚、二十四冊目に置きます。

目次

河合隼雄という人

河合隼雄(かわい・はやお)さんは、一九二八年、兵庫県の篠山(現・丹波篠山市)の生まれ。日本の臨床心理学を語るうえで、外せない人です。

経歴が少し変わっています。京都大学では、もともと理学部で数学を学びました。数字と論理の人です。ところがその後、心理学に転じ、スイスに留学して、日本人として初めてユング派の分析家の資格を取りました。砂の箱に人形を並べる「箱庭療法」を日本に広めたのも河合さんです。晩年には文化庁長官も務め、文化功労者にもなりました。論理をとことん学んだ人が、生涯をかけて「論理では割り切れない心」に向き合った——その振れ幅が、河合さんの言葉に独特の説得力を与えています。

『こころの処方箋』は、どんな本か

『こころの処方箋』は、一九九二年に新潮社から出た本です(いまは新潮文庫で読めます)。四ページほどの短いエッセイを五十五編集めた、肩肘張らずに読める一冊です。

たましいに語りかけるエッセイ集。人の心の影を知り自分の心の謎と向き合う……こころの専門家の常識五十五篇。

『こころの処方箋』新潮社・内容紹介より

おもしろいのは、各章のタイトルがそのまま箴言になっていることです。第一章からして「人の心などわかるはずがない」。心の専門家が、いちばん最初に「わからない」と言い切る。ここに河合さんの姿勢が全部あらわれています。わかったつもりになる方が危ない。割り切れなさを、割り切れないまま抱えていられること——それを河合さんは大切にします。もの選びの目も、じつは同じところにあります。

一つの目盛りで見ない

その中に、目利きにそのまま効く一篇があります。タイトルはこうです。

二つの目で見ると奥行きがわかる

『こころの処方箋』章題より

片目をつぶって世界を見ると、平面に見えます。二つの目で見て初めて、奥行きが立ち上がる。ものを選ぶときも同じで、値段だけ、口コミの点数だけ、という「一つの目盛り」で見ているうちは、対象は平べったいままです。安いか高いか、人気か不人気か。それだけでは、良し悪しの奥行きは見えてきません。

良いものを見抜く人は、いつも複数の目を持っています。値段と、手ざわり。評判と、自分の実感。作り手の意図と、暮らしでの使い勝手。相反することもある二つ以上の視点を、どちらか一方に決めつけずに重ねる。すると、平面だった商品が急に立体になり、「これは自分にとって良い」という奥行きが見えてくる。河合さんが心を見るときの複眼は、そのまま、ものを見る目利きの複眼です。

よいことには、代償がある

もう一つ、選ぶことの本質を突いた章題があります。

ふたつよいことさてないものよ

『こころの処方箋』章題より

一つで二つの良いことは、そうそうない——河合さんが、母親からよく聞かされた言葉だといいます。何かを選べば、その裏で必ず何かを手放している。安さを取れば質のどこかを、デザインを取れば機能のどこかを、たいてい少しずつあきらめています。

これは、もの選びで消耗しないための知恵でもあります。「全部いい」ものを探し続けると、いつまでも決められません。良いものには代償がある、と最初から知っていれば、「自分は何を取り、何をあきらめるのか」を選べるようになる。選ぶとは、裏を返せば、あきらめること。その覚悟がある人のものは、ぶれません。あれもこれもと欲張った部屋より、何を捨てたかがはっきりした部屋のほうが、たいてい気持ちいいのは、このためです。

遠回りが、目を育てる

最後に、目を育てることそのものについての一篇を。

道草によってこそ「道」の味がわかる

『こころの処方箋』章題より

まっすぐ目的地に着くだけでは、その道の味は分からない。寄り道や回り道をして初めて、道そのものの面白さが見えてくる、という話です。目利きの育ち方も、これとまったく同じです。

いいものだけを最短で買おうとしても、選ぶ目は育ちません。時に「外れ」を買い、遠回りをし、あれこれ見比べて、少しずつ自分の中に基準ができていく。この連載でずっと言ってきた「たくさん見て、自分のものさしを作る」は、河合さんの言い方をすれば、道草のすすめです。無駄に見える回り道こそが、いちばんの近道だったりします。

割り切らない目こそ、目利き

『こころの処方箋』を読むと、目利きのイメージが少し変わります。良し悪しを即座に言い当てる鋭さ、ではありません。むしろ、簡単には割り切らずに、二つの目で奥行きを見て、代償を引き受けて選び、遠回りも味わう——そういう、ゆっくりした目のことです。

河合さんは、心を数字で片づけないために「たましい」という言葉を大事にしました。ものを選ぶときも、点数やスペックで片づけてしまわず、その奥行きを見ようとすること。それが、暮らしを自分の手で選ぶということなのだと思います。心の専門家の一冊は、めぐりめぐって、もの選びの一冊でもありました。

次回の「目利きの本棚」は、光野桃『おしゃれの視線』を予定しています。装いを通して「自分に似合うもの」を見抜く目をどう育てるか、を綴ったエッセイを読みます。

河合隼雄『こころの処方箋』(新潮文庫)

河合隼雄『こころの処方箋』(新潮文庫) 書影

「人の心などわかるはずがない」から始まる、五十五の短いエッセイ集。割り切れないものを割り切れないまま抱える、という逆説の知恵が詰まっている。もの選びや暮らしの「見る目」を、白黒の外から鍛えたい人に。
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本を選ぶ目と、道具を選ぶ目は、地続きです。
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