前回この棚に置いたのは、柳宗悦『民藝とは何か』でした。名もなき職人がつくった日用の器にこそ美がある——そう説いた本です。ではその心は、どこへ受け継がれたのか。
答えのひとつが、宗悦の長男にいます。プロダクトデザイナーの柳宗理(やなぎ・そうり)。あの、脚がちょうちょのように広がる木の椅子「バタフライスツール」を生んだ人です。父が思想として語った日用の美を、息子は工業デザインの現場で形にしました。父と子で、ものの美をつないだ二代。その息子のほうを、目利きの本棚、二十七冊目に置きます。
柳宗理という人
柳宗理(一九一五〜二〇一一)は、日本を代表するプロダクトデザイナーです。父は、前回取り上げた民藝運動の柳宗悦。その長男として生まれました。
経歴が面白い人です。東京美術学校で絵を学んだあと、日本に来ていたフランスの女性デザイナー、シャルロット・ペリアン(ル・コルビュジエの協働者)の助手として、一九四〇年から日本各地をまわります。戦後は自分の研究所を構え、椅子から食器、鍋、玩具まで、暮らしのあらゆる道具を手がけました。金沢美術工芸大学では約五十年も教えています。
そしてもう一つ。宗理は、父・宗悦が創った日本民藝館の、三代目の館長を務めました(一九七七年から)。民藝の総本山を継いだのが、工業デザイナーだった。この一点に、宗理という人のすべてが表れています。
手で、考える
宗理の代表作が、一九五四年に作りはじめ、一九五六年に完成したバタフライスツールです。二枚の成形合板を金具でつないだだけの、無駄のない椅子。ニューヨーク近代美術館(MoMA)にも永久収蔵されている、日本のデザインの金字塔です。
この椅子がどう生まれたか。宗理は、図面を引くより先に、手を動かす人でした。紙を切り、折り、曲げる。石膏やベニヤ板で実物大の模型を何度も作り、指で確かめながら形を決めていく。「手で考える」と評される、彼のやり方です。頭の中の理屈でなく、手が納得する形を探す。これは、父・宗悦が愛した「手仕事」の精神と、地続きです。宗理自身、デザインの十ヶ条にこう書きました。
デザインの構想は、デザインする行為によって触発される。
柳宗理「デザイン十ヶ条」(『デザイン 柳宗理の作品と考え』用美社)
考えてから作るのではない。作りながら、考えが生まれる。ものと向き合う手の中にこそ答えがある——という姿勢です。
名前のないものが、最高
父・宗悦は、作者の名のない「無名の職人」の器に美を見ました。息子の宗理は、それを工業デザインの言葉に置き換えます。「アノニマス・デザイン」——匿名の、無名のデザイン。彼はこう言い切りました。
名前なしに世の中で使われるデザインが最高。アノニマウスデザインは僕の最終目的です。
柳宗理(『アプローチ』一四二号・一九九八)
野球のグローブやバット、実験用のビーカー。誰がデザインしたかなど誰も気にしないけれど、用途だけを突き詰めた結果、完成された形になっているもの。宗理は、そういう「名前のいらない道具」こそ最高だと考えました。デザイナーの署名や個性を前に出すのではなく、道具そのものが用に応えて美しくなる。父が民藝に見たものと、まっすぐ同じです。
これは、もの選びの芯にも触れてきます。僕たちはつい「誰がデザインしたか」「どこのブランドか」で選びます。でも宗理に言わせれば、最高の道具は名前を主張しない。作家名やロゴでなく、毎日の用途にどれだけ素直に応えているか。名前の外側で、ものの良さを見る目です。
父の「用」を、機械の時代へ
では宗理は、父の民藝をそっくりそのまま受け継いだのか。そうではありません。ここが、この人のいちばん面白いところです。
手造りのものが美しいからとて、そのままそれを機械にのせて量産することは馬鹿げている。手造りと、機械生産は異なっている手段であるから、それによって表現されている美は自ずと異なっている。
柳宗理『柳宗理 デザイン』(河出書房新社・一九九八)
手仕事の美と、機械生産の美は、別のものだ。だから手仕事をそのまま真似るのでなく、機械には機械にふさわしい美を追う。宗理は、父の理想を懐かしむのでなく、工業生産という新しい手段の中に、民藝の心を生かし直そうとしました。父の「用」を、彼はこう理解していました。
柳宗悦のいう「用」とは、現代デザインの機能性・合理性よりもう少し幅の広い、人間生活の精神的な面までをも含む用語であった。
柳宗理「父の民芸私の民芸」(『芸術新潮』一九八六)
ただ便利、ただ機能的、ではない。使う人の暮らしや心まで含めた「用」。宗理のステンレスのやかんや、白山陶器の醤油さしが、機能的なだけでなく、どこか手になじんで愛おしいのは、この幅の広い「用」を見ていたからです。父の思想を、時代に合わせて訳し直した仕事でした。
いいものは、生まれる
宗理のデザイン十ヶ条には、こんな一行もあります。
本当の美は生まれるもので、つくりだすものではない。
柳宗理「デザイン十ヶ条」(『デザイン 柳宗理の作品と考え』用美社)
美しく見せようと狙って作るのではなく、用途を突き詰めた先に、自然と生まれてくる。これは父・宗悦の「用のために作った器の方が美しい」と、みごとに響き合っています。思想家の父と、デザイナーの息子。手段はまるで違うのに、たどり着いた場所は同じでした。
僕たちがものを選ぶときも、同じ目が使えます。名前や流行でなく、用途に素直で、使ううちに手になじむもの。作り手が用を突き詰めた結果として、自然に美しくなっているもの。バタフライスツールも、宗理のやかんも、そういう目で見ると、なぜ長く愛されるのかがわかります。父から子へ受け継がれた「用の美」は、いまも僕たちのもの選びの、確かな物差しです。
次回の「目利きの本棚」は、雑誌『暮しの手帖』を作った花森安治を予定しています。企業広告を一切載せず、ふつうの暮らしの道具をひたすら試し続けた、編集者の目を読みます。

本を選ぶ目と、道具を選ぶ目は、地続きです。
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