小さな選択が、顔になる——池波正太郎『男の作法』

天ぷらを、親の敵のように

池波正太郎に、有名な一節がある。天ぷらは「揚げるそばから、親の敵にでも会ったように」食べろ、というものだ。上品に箸を置いて会話を続けている場合ではない。揚がった瞬間がいちばんうまいのだから、冷める前に食え、と。乱暴なようでいて、これは天ぷらという料理への最大の敬意だと僕は思う。

『男の作法』は、その調子で最初から最後まで続く一冊だ。天ぷらの食べ方、そばのつゆの付け方、ビールの注ぎ方、店の選び方、万年筆の持ち方。細かい、どうでもよさそうな話ばかりが並ぶ。でも読み終えると、細部を大事にできない人間は結局なにも大事にできない、という一本の芯が通っていることに気づく。今日はこの本を棚から出す。

目次

池波正太郎という人

池波正太郎は一九二三年、東京・浅草に生まれた。下町の育ちで、少年期に株屋の小僧、戦後は都の職員を務めながら戯曲を書き、やがて時代小説へ移っていった人だ。『錯乱』で直木賞を取り、『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』という、いまも読み継がれる連作を残した。書くだけの人ではなかった。絵を描き、映画を浴びるように観て、うまいものを食うために金と時間を惜しまなかった。

『男の作法』が説教くさくならないのは、この人が実際に暮らしのなかで手を動かしてきたからだと思う。机上で「男とはかくあるべし」と論じているのではない。何百回と天ぷら屋の暖簾をくぐり、そばをたぐり、店の主人と口をきいてきた人間が、その積み重ねから出てきたことだけを話している。だから具体的で、そして妙に説得力がある。もの選びでも同じで、実際に長く使った人の言葉だけが、なぜか信用できる。

どんな本か

『男の作法』は一九八一年に世に出て、いま広く読まれているのは新潮文庫版(一九八四年)だ。二百四十ページほどの薄い文庫で、体裁は聞き書き、つまり池波が語ったことを書き起こした形になっている。だから文章がぜんぶ話し言葉なのだ。「〜なんだよ」「〜しちゃうね」と、目の前で年上の人にざっくばらんに教わっているような手ざわりがある。

扱う範囲は広い。食べ方、身だしなみ、金の使い方、時間の使い方、贈り物、家具、酒。一見ばらばらなのに、根っこはひとつだ。日々のこまごました選択に、その人の生き方がまるごと出る——池波はそれを、正論としてではなく、天ぷらやビールや万年筆という具体を通して見せてくる。ここからは、僕が特にいいと思った言葉をいくつか。

揚がった、その一瞬に

てんぷら屋に行くときは腹をすかして行って、親の敵にでも会ったように揚げるそばからかぶりつくようにして食べなきゃ……。

池波正太郎『男の作法』(新潮文庫)より

核にあるのは、いちばんうまい一瞬を逃すな、という一点だ。天ぷらは揚がった直後に頂点があって、あとは下る一方だ。だから腹を空かせて行き、出たそばから食う。料理人が一番うまい状態で出してくれたものを、こちらもその一瞬で受け取る。それが作り手への礼儀だという話だ。

これは食べ方の作法にとどまらない。旬のもの、しぼりたて、焼きたて、届いたばかりの一冊。ものには「いちばんいい時」があって、それはたいてい短い。いい道具を買っても箱にしまって眺めているだけの人と、毎日使い倒して手に馴染ませる人とでは、同じものを持っていても手にしている中身がまるで違う。惜しんで温存するより、いい状態のうちにちゃんと使い切る。天ぷらの一節は、そういう構えを教えてくれる。

面倒を、うまさへの近道に

コップに三分の一くらい注いで、飲んじゃ入れ、飲んじゃ入れして飲むのが、ビールの本当にうまい飲み方なんですよ。

池波正太郎『男の作法』(新潮文庫)より

なみなみ注いでぬるくなる前に飲み干し、また少し注ぐ。冷たさと泡が生きているうちに口へ運ぶ。ここでも池波が言っているのは同じことだ。うまさには賞味の窓があって、それは長くない。手間を惜しんでその窓を外すな、と。

面倒くさがらないことが、結局いちばんうまいものにたどり着く道なのだと思う。三分の一ずつ注ぐのは、正直ちょっと面倒だ。でもその一手間が、同じビールをまるで別物にする。道具でも器でも、少し手をかけてやると応えてくれるものがある。鉄瓶を空焚きしないよう拭く、包丁を使うたびに研ぐ、革を月に一度撫でる。その小さな手間を「面倒」と切り捨てるか、うまさへの近道と見るか。暮らしの質は、たぶんそこで分かれる。

端っこに、ぜんぶ出る

食べもの屋というものは、まあどんな店でもそうだけど、店構えを見れば大体わかっちゃう。

池波正太郎『男の作法』(新潮文庫)より

暖簾の掛け方、格子の拭き込み方、入口まわりの整い方。看板の派手さではなく、日々くり返される手入れの跡に、その店の中身が出るという話だ。派手に飾った店より、地味でも隅々まで神経の通った店を池波は買う。目利きとは、この「大体わかっちゃう」の精度のことだ。

これはものを選ぶときの目とそっくり重なる。宣伝の言葉や星の数ではなく、作りの端に目がいくかどうか。裏地の始末、蓋の合わせ、継ぎ目の処理、説明されない部分の丁寧さ。そこに作り手の性格がいちばん正直に出る。表通りの派手さは金で買えるが、見えないところの手入れは、その作り手のふだんの姿勢そのものだ。僕が名品を選ぶときにいちばん見るのも、実はこの「端っこ」だったりする。

毎日手に取る一本を、良くする

万年筆というのは、男が外へ出て持っている場合、それは男の武器だからねえ。刀のようなものだからねえ。

池波正太郎『男の作法』(新潮文庫)より

池波は、若い人でも万年筆だけはいいものを持っていい、と言う。服や時計を分不相応に飾るのは野暮でも、書く道具に金をかけるのは別だ、と。刀を差すように、いい一本を懐に持つ。それだけで背筋が少し伸びる、という感覚の話だ。

持ち物を「見せるためのもの」と「自分を律するためのもの」に分ける感覚は、いまでも通じると思う。ブランドで武装して他人に見せるのではなく、自分の気分を引き締めるために、毎日必ず手に取るひとつを良くする。万年筆でも、財布でも、鞄でも、コーヒーの一杯でもいい。数を増やすより、手に馴染むまで使い込む一本を持つ。安いものを次々買い替えるより、そのほうがずっと自分の芯になる。池波の「刀」という比喩は、そこを突いている。

同じ顔にならないために

男の顔をいい顔に変えて行くということが男をみがくことなんだよ。いまのような時代では、よほど積極的な姿勢で自分をみがかないと、みんな同じ顔になっちゃうね。

池波正太郎『男の作法』(新潮文庫)より

四十年前の言葉なのに、いまのほうがよほど刺さる。放っておくと、着るもの、持つもの、行く店まで、みんなどこかで見た同じものに収れんしていく。それに抗うには、こまかい選択を人任せにしない、という積極さがいる。

『男の作法』が結局言っているのは、天ぷらの食べ方でもビールの注ぎ方でもなくて、日々の小さな選択の一つひとつを自分の手に握っておけ、ということだと思う。何をどう食べ、何を持ち、何に金と時間をかけるか。その総和がその人の顔になる。派手である必要はない。ただ、選ぶ理由を自分で言えること。それが「みがく」ということなのだと、この薄い文庫は教えてくれる。次にいい万年筆を一本選ぶとき、僕はきっとこの本を思い出す。

次回は、暮らしの手ざわりを言葉にした一冊——白洲正子か、あるいは食と生き方をめぐる別の名著を一冊、棚から出そうと思います。

池波正太郎『男の作法』(新潮文庫)
池波正太郎『男の作法』(新潮文庫) 書影
『男の作法』は、時代小説の名手・池波正太郎が語り下ろした暮らしのエッセイ。天ぷらの食べ方から万年筆の持ち方まで、こまごました作法を通して「日々の小さな選択にその人の生き方が出る」という一本の芯を説く。話し言葉で綴られた、二百四十ページほどの薄くて濃い文庫。
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