スイッチ一つで、部屋は隅々まで明るくなる。便利だけれど、どこか味気ない——そう感じたことはないでしょうか。谷崎潤一郎『陰翳礼讃』。日本の美は“翳り”の中にある、と説いた名随筆は、明るすぎる時代を生きる私たちに、“暗がり”の豊かさを思い出させてくれます。
谷崎潤一郎という作家
谷崎潤一郎は、一八八六年、東京・日本橋に生まれた小説家です。『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』など、耽美的で完成度の高い作品を数多く残し、日本を代表する文豪のひとりに数えられます。
『陰翳礼讃』は、一九三三年(昭和八年)に発表された随筆です。西洋化が進み、電灯が家々を明るく照らしはじめた時代に、谷崎は“翳り”や“暗がり”が育んできた日本独自の美を、建築・器・料理・女性の美しさまで、縦横に語りました。
どんな本か
障子越しのやわらかな光、漆器の底に沈む金蒔絵、蝋燭の灯にゆらめく座敷——谷崎は、日本の美しさは“明るさ”ではなく“陰翳(いんえい)”、つまり光と影のあわいにこそ宿ると考えました。ものそのものより、ものが生み出す翳りに美を見る。目利きの、いちばん奥にある感覚を言葉にした一冊です。
美は、物体でなく陰翳にある
この随筆の核心が、この一文です。
「美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にあると考える」
谷崎潤一郎『陰翳礼讃』(中公文庫)
美しいものを選ぼうとすると、つい“もの”そのものに目が行きます。けれど谷崎は、美は物と物のあいだ、光と影のあわいに生まれると言う。器を一つ選ぶときも、それが置かれる場所の翳りまで含めて見る。目利きの視点が、一段深くなる言葉です。
沈んだ翳りのあるものを好む
谷崎は、日本人がなぜ“くすんだもの”に惹かれるのかを、こう書きます。
「われわれは一概に光るものが嫌いと云う訳ではないが、浅く冴えたものよりも、沈んだ翳りのあるものを好む」
谷崎潤一郎『陰翳礼讃』(中公文庫)
ぴかぴかの新品より、使い込まれて濁った光沢を美しいと感じる。谷崎はそれを“時代のつや”、正直に言えば“手垢の光り”と呼びました。長く使ったものだけがまとう味わい。ものを“育てて”使う楽しみを、そっと肯定してくれます。
羊羹の色に見る、翳りの美
谷崎の目は、一切れの和菓子にも美を見つけます。
「玉のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光りを吸い取って夢みる如きほの明るさを啣んでいる」
谷崎潤一郎『陰翳礼讃』(中公文庫)
半透明に曇った羊羹の肌が、奥まで光を吸い込んで、夢のようにほの明るい。何気ない和菓子一つにも、これほどの陰翳の美がある。身のまわりを見る目が、少し変わる一節です。
暗がりを、少しだけ取り戻す
『陰翳礼讃』は、“暗がりを大切にしよう”と声高に説く本ではありません。ただ、明るさ一辺倒になった暮らしの中で、少し照明を落としてみる。翳りのある器を選んでみる。それだけで、日常の見え方が静かに深くなる。九十年前の随筆が、今もこれほど新しく読めるのは、そのためだと思います。

次回の「目利きの本棚」も、ジャンルを問わず読み継がれてきた名著を紹介していきます。
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本を選ぶ目と、道具を選ぶ目は、地続きです。
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