「あの人はセンスがいい」と言うとき、僕らはたいてい、その人が生まれつき持っている何かを思い浮かべます。自分にはない、授かりものの才能。だから「自分はセンスがなくて」と、半分あきらめてもいる。
でも、くまモンや相鉄、中川政七商店を手がけたデザイナー・水野学さんは、その思い込みをまっすぐ否定します。『センスは知識からはじまる』——タイトルが、そのまま結論です。センスは才能ではなく、知識の集積で誰でも磨ける。目利きは、生まれではなく、あとから鍛えられる。もの選びの見方が根本から変わる一冊として、目利きの本棚の二十一冊目に置きます。
水野学という人
水野学(みずの・まなぶ)さんは、一九七二年東京生まれのクリエイティブディレクターです。一九九八年に自身の会社 good design company を設立。手がけた仕事を並べると、その言葉の重みがわかります。熊本県の「くまモン」、相鉄グループの電車・駅・制服のトータルデザイン、中川政七商店のブランディング、久原本家「茅乃舎(かやのや)」——どれも、僕らが暮らしのなかで実際に手に取る”名品”や”愛されるブランド”ばかりです。
評価も国際級で、世界三大広告賞のひとつカンヌライオンズの金賞をはじめ受賞多数。慶應義塾大学で教鞭もとっています。つまり「センスは知識だ」という主張は、耳ざわりのいい精神論ではありません。実際に売れる商品と、長く愛されるブランドを作り続けてきた現場の人の言葉です。だから、重い。
『センスは知識からはじまる』は、どんな本か
この本は、二〇一四年に出た、いわば「センスの教科書」です。構成は、まずセンスとは何かを定義し、なぜ今それが必要とされるのかを説き、では具体的にどう磨くのかを示す——定義→時代背景→方法論、という順で進みます。専門用語はほとんどなく、具体例が多いので、読み物としてただ面白い。
そして今、この本はまた売れています。二〇二三年に累計十万部を超え、刊行から十年近く読み継がれる定番になりました。理由のひとつは、AIの時代です。誰でも”それっぽい”ものを一瞬で作れるようになったからこそ、最後にものを言うのは「良し悪しを判断して、ちょうどよく仕上げる人間の力」——つまりセンス、言い換えれば目利きだ、というわけです。
センスとは、じつは”目利き”のことだ
水野さんは、あいまいに使われる「センス」という言葉を、まず定義します。
「センスのよさ」とは、数値化できない事象のよし悪しを判断し、最適化する能力である。
水野学『センスは知識からはじまる』(朝日新聞出版)
数値化できないものの良し悪しを判断し、ちょうどよく最適化する力。それはそっくりそのまま、僕らが”目利き”と呼んでいるものです。器を選ぶ、部屋を整える、贈り物を選ぶ——どれも点数のつかない良し悪しを見極めて、その場にちょうどいい一つを選ぶ作業です。
大事なのは、これを「能力」と言い切っている点。生まれつきの感性ではなく、判断して最適化する”スキル”だ、と。スキルなら、鍛えられます。「自分にはセンスがない」は、じつは「まだ鍛えていない」だけなのかもしれません。
才能じゃない。九十九%は知識だ
では、どこまで鍛えられるのか。水野さんは、あるインタビューでこう言い切っています。
サッカーの日本代表になるにはセンスは必要かもしれない。けれど、僕たちのようなデザインの仕事について言えば、99%センスは知識で磨くことができると言えると思います。
水野学(『宣伝会議』インタビューより)
九十九%は知識で磨ける。プロがここまで断言できるのは、彼自身がその証明だからです。たとえば、くまモン。水野さんがアートディレクションを手がけたあのキャラクターは、日本銀行熊本支店の試算で、登場から二年間の経済波及効果が約千二百四十四億円。近年は関連商品の売上が、単年で千六百億円を超える年もあります。
これは、天から降ってきたひらめきではありません。熊本の魅力をどう伝えるか、どんな色と形なら愛されるか——膨大な知識を集めて、最適な一点に落とし込んだ結果です。センスは、知っていることの量と、それを組み合わせる精度でできている。もの選びも同じで、いい器や道具をたくさん知っている人ほど、「新しいちょうどいい」を選べます。
目利きの第一歩は、”普通”を知ること
では、その知識をどこから積むのか。水野さんの答えは、意外なほど地味です。奇抜さではなく、”普通”から始めろ、と。
普通とは、「いいもの」がわかるということ。普通とは、「悪いもの」がわかるということ。その両方を知った上で、「一番真ん中」がわかるということ。
水野学『センスは知識からはじまる』(朝日新聞出版)
良いものと悪いもの、その両端を知って初めて、「一番真ん中=ちょうどいい」がわかる。だから最初にやるのは、各ジャンルの”王道”を知ることです。ジーンズならリーバイス、ボールペンならジェットストリーム、というように、定番を押さえる。定番とは、多くの人が長く選び続けてきた”良し悪しの基準点”だからです。
あのiPhoneでさえ、まったくの無からは生まれていません。タッチ操作、iPodの音楽、カメラ、インターネット、シンプルなデザイン——すでにあったものの、最適な組み合わせです。目利きとは、変わった選択をする力ではなく、王道を知り尽くしたうえで”ちょうどいい真ん中”を選べる力。名品店で、僕が奇をてらわず定番から紹介していくのも、じつはこの順番です。
目利きは、今日から鍛えられる
この本が痛快なのは、目利きを”才能の問題”から”努力の問題”へ引きずり下ろすところです。センスがある人=特別な人、ではない。良いものをたくさん見て、王道を知り、組み合わせの引き出しを増やしてきた人。ただ、それだけです。
だとすれば、やることははっきりしています。気になったジャンルの”王道”を、一つずつ知る。良いものにも悪いものにも触れて、自分のなかに基準点を増やす。次に何かを選ぶとき、値段や口コミを見る前に「これは、この用途の王道と比べてどうだろう」と一度だけ考えてみる。センス、つまり目利きは、その積み重ねの別名です。生まれつきの誰かのものではなく、今日から自分で始められます。

次回の「目利きの本棚」は、山口周『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか』を予定しています。論理だけでは差がつかない時代に、なぜ美意識が武器になるのかを考えます。
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本を選ぶ目と、道具を選ぶ目は、地続きです。
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