東京で満員電車に押し込まれている今この瞬間も、アラスカの海ではクジラが体を海面に持ち上げている。星野道夫さんは、そういう“もうひとつの時間”があることを、写真だけでなく文章でも書いた人です。
『旅をする木』は、アラスカで暮らしながら書いた短い随筆を集めた一冊。表題作は、一本の木が種から薪になって燃え尽きるまでを最後まで見届ける話です。読むと、自分がふだん見落としている時間の流れに気づきます。ものを長く見る、最後まで見る——目利きの本棚の十六冊目に、この本を選びました。
星野道夫さんという人物
星野道夫さん(一九五二〜一九九六)。千葉県市川市生まれ、慶應義塾大学卒。十九歳のとき古本屋で見つけたアラスカの写真集に惹かれ、シシュマレフ村の村長宛に、住所も分からないまま手紙を書きます。返事をもらってひと夏を過ごし、その後アラスカに拠点を移して、二十年近く極北の自然・動物・人を撮り続けました。写真家として世界的に知られる一方、文章の書き手としても評価が高く、『旅をする木』『イニュニック』『長い旅の途上』などを残しています。一九九六年八月、鮭の撮影で訪れたカムチャツカ半島でヒグマに襲われ、四十三歳で亡くなりました。
ものの一生を、最後まで見る
表題作は、一本のトウヒの木を追いかける話です。種から芽を出し、何十年もかけて育ち、やがて切られて薪になる。星野さんは、その終わりまでを見届けます。
一本のトウヒの木の果てしない旅は、原野の家の薪ストーブの中で終わるのだが、燃え尽きた大気の中から、生まれ変わったトウヒの新たな旅も始まってゆく。
星野道夫『旅をする木』(文藝春秋・文春文庫)表題作
ものを“今の姿”だけで見ない。どう生まれて、どう使われて、どう終わっていくか。その一生ごと見る目です。いい道具や器を選ぶときも、僕はこの視点を借ります。この先どう使い込まれて、どう朽ちていくかまで込みで選べると、買い物の失敗がぐっと減ります。
「もうひとつの時間」が、流れている
本書でいちばん知られた一節です。東京で働く編集者がアラスカのクジラ取材に同行し、都会の時間の外に、もうひとつの時間が流れていることに気づく——そんな場面から出てきた言葉です。
ぼくたちが毎日を生きている同じ時間、もうひとつの時間が、確実に、ゆったりと流れている。日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか、それは、天と地の差ほど大きい。
星野道夫『旅をする木』(文藝春秋・文春文庫)「もうひとつの時間」
自分の生活の速い時間とは別に、もっと遅い時間が動いている。そこに気づけるかどうかで、ものの見え方が変わります。早く買って早く捨てるのか、長く付き合うのか。どちらの時間で選ぶかの違いだと思います。
言葉より、見た風景が効いてくる
子どもの頃に見た風景がずっと心の中に残ることがある。いつか大人になり、さまざまな人生の岐路に立った時、人の言葉ではなく、いつか見た風景に励まされたり勇気を与えられたりすることがきっとあるような気がする。
星野道夫『旅をする木』(文藝春秋・文春文庫)「ルース氷河」
人からもらった言葉より、自分の目で見たものの方が、後になって効いてくる。だからこそ、よく見ておく。今いいと思ったものを、目に焼きつけておく。その蓄積が、次に何かを選ぶときの土台になります。“目利き”の正体も、たぶんこの積み重ねです。
最後まで見る、という贅沢
『旅をする木』は、一本の木の一生を追い、都会とは別の時間に耳を澄ませ、見た風景を心に残す本です。速く消費するのが当たり前になった今こそ、ものを長く見る、最後まで見るという構えを取り戻したくなります。写真家が、その目のままで書いた随筆。読むと、身のまわりのものの見方が少し変わります。

次回の「目利きの本棚」も、いま読める本や読み継がれてきた名著から、もの選びと暮らしのヒントになる一冊を紹介します。
本を選ぶ目と、道具を選ぶ目は、地続きです。
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