「なんとなく、こっちのほうがいい」——そう感じたのに、理由をうまく説明できなくて、結局“数字で説明できるほう”を選んでしまう。仕事でも、買い物でも、そんな経験はないでしょうか。
世界のトップ企業のエリートたちは、その「なんとなくいい」を、むしろ鍛えるべき力として磨いています。しかも、教養のためではなく、勝つために。——山口周さんの『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』は、そう切り出す一冊です。もの選びの見方まで変わる本として、目利きの本棚の二十二冊目に置きます。
山口周という人
山口周(やまぐち・しゅう)さんは、一九七〇年、東京生まれ。この人の経歴そのものが、本の説得力になっています。慶應義塾大学の文学部で哲学を学び、大学院では美学美術史を修めた——つまり、もともと“アート”の側の人です。ところが就職先は電通、その後はボストン・コンサルティング・グループ、コーン・フェリーと、論理と分析で戦う“サイエンス”の最前線、コンサルティングの世界でした。
アートの素養を持ちながら、数字で詰めるコンサルの現場に立ってきた人。だから本書の「アートとサイエンス」という主題は、机上の対立ではなく、著者自身が両方を生きてきた実感から出ています。現在は独立して、著述家・研究者として活動しています。
『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』は、どんな本か
この本は、二〇一七年に出た光文社新書です。副題は「経営における『アート』と『サイエンス』」。ビジネス書の顔をしていますが、中身は“良し悪しをどう決めるか”という、もっと普遍的な問いを扱っています。
主張はシンプルで、痛烈です。分析・論理・理性に軸足を置いた「サイエンス型」の意思決定だけでは、変化が速く先の読めない現代の舵取りはできない。だから世界のエリートは、教養のためではなく、きわめて実利的な目的で「美意識」を鍛えている——。刊行から時間が経っても、要約サービスや書評で読み継がれる定番の一冊です。
なぜ今、論理だけでは足りないのか
本書がまず突きつけるのは、「正解」の値打ちが下がった、という現実です。
多くの人が論理的・分析的な情報処理スキルを身に付けた結果、みんなが同じ正解を出すようになりました。これは正解のコモディティ化、差別化の消失を招いています。
山口周(WORKSIGHT インタビューより)
みんなが同じフレームワークで、同じデータを分析すれば、同じ結論にたどり着く。正解が“コモディティ(ありふれた日用品)”になれば、そこに差はつきません。では何で差がつくのか——山口さんの答えが「美意識」です。
論理で詰め切れないところを、最後は「これがいい」と判断して、ちょうどよく決める力。それはそのまま、僕らが“目利き”と呼んでいるものに重なります。
世界のエリートは、MBAより「MFA」を目指す
この本でいちばん驚くのは、その“美意識”を、欧米のエリートが本気で学びに行っている、という話です。
山口さんによれば、かつて出世の王道だったMBA(経営学修士)の価値が相対的に下がり、代わりに注目されているのがMFA——Master of Fine Arts、つまり美術の修士号だといいます。二〇一六年にはフィナンシャル・タイムズが、名門アートスクールの幹部研修に、フォードやビザといった名だたるグローバル企業が社員を送り込んでいる実態を報じました。ロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アートには、そうした企業幹部向けのプログラムがあります。
「アートを学ぶ」と聞くと趣味の話に聞こえますが、彼らは完全に実利で動いています。正解を出せる人はもう余っている。足りないのは、“良し悪しそのものを決められる人”だ、というわけです。
自分の中に、美のモノサシを持つ
では、美意識とは具体的に何なのか。本書は「美のモノサシ」という章を立てています。
「直感」「倫理」「感性」「センス」「真・善・美を問う姿勢」――すなわち「美意識」を鍛えることで、彼らはこの混沌とした時代においてビジネスを牽引する力を得ようとしているのです。
山口周(WORKSIGHT インタビューより)
外にある正解を探すのではなく、自分の中に「これは良い/これは違う」という基準(モノサシ)を持つこと。それが美意識だ、と山口さんは言います。
そしてもう一つ、本書には僕らの暮らしに直結する指摘があります。経済が成熟し、人が“自分らしさ”を求めるようになった結果、「すべての消費がファッション化しつつある」というのです。機能や値段ではなく、“自分の美意識に合うか”でものを選ぶ時代。だとすれば、日々のもの選びこそ、美意識を鍛える一番の練習になります。
良し悪しは、最後は自分で決める
この本を読むと、“美意識”がぐっと身近になります。それは芸術家の特別な感性ではなく、「良し悪しを、外の正解に頼らず、自分で決める力」のこと。論理で説明できないからと後回しにしてきたその感覚こそ、これからの時代の武器になる、と山口さんは説きます。
やることは、じつは僕らの連載とまったく同じです。いいものをたくさん見て、自分の中に基準を作る。値段や口コミを見る前に、一度「自分は、これをいいと思うか」と問う。その積み重ねが、美意識であり、目利きです。エリートの話に見えて、これは“自分の物差しで暮らしを選ぶ”すべての人のための本でした。
次回の「目利きの本棚」は、原研哉『白』を予定しています。日本を代表するデザイナーが、「白」という一色から、余白と簡素の美をどう見るのかを読みます。

本を選ぶ目と、道具を選ぶ目は、地続きです。
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