春の桜のピンクは、花びらではなく、樹の全身からもらう色だとしたら――。染織家で人間国宝の志村ふくみが、植物から色をいただく仕事を通して綴った随筆『一色一生』。読むと、身のまわりの「色」や「もの」が、少し違って見えてきます。情報で選ぶことに疲れたときに、静かに効く一冊です。
志村ふくみという人
志村ふくみは、大正の終わりに近江八幡で生まれた染織家です。母から染めと織りを受け継ぎ、山野の草木で糸を染める「草木染め」ひとすじに歩いてきました。植物から取り出した色で紬(つむぎ)を織り、その仕事は高く評価されて、重要無形文化財保持者――いわゆる人間国宝に認められています。
彼女の言葉が多くの人の心に残るのは、染めを「技術」ではなく「いのちとの関わり」として語るからです。草木を煮出して色をもらい、糸に移す。その一連を、命を受け取り、生かす営みとして見つめる。だから染織を知らない読者でも、自然や暮らしへのまなざしとして、まっすぐ受け取れます。
『一色一生』は、どんな本か
『一色一生』は、志村ふくみが色と植物をめぐって書いた随筆集です。一九八二年に世に出て、大佛次郎賞を受けました。藍、桜、紅(べに)――ひとつひとつの色に、それがどこから来て、どんな時季にしか現れないのか、どんな手間で糸に宿るのかが、静かな筆致で綴られていきます。
通底しているのは、「色は単なる色ではなく、その背後にある植物の生命が、色を通して映し出されている」という見方です。だから彼女にとって染めとは、好きな色を作り出すことではなく、草木がすでに抱いている色を、譲り受ける行為でした。
桜色は、花びらではなく樹皮から
この本の世界をいちばんよく伝えるのが、桜色の話です。詩人の大岡信が、志村ふくみから聞いたこの逸話を随筆『言葉の力』に書き残しています。ある日、志村が染めた美しい桜色の着物を前に、大岡はその色が花びらではなく、桜の樹皮から取り出されたものだと知って驚きます。
「この桜色は、一年中どの季節でもとれるわけではない。桜の花が咲く直前のころ、山の桜の皮をもらってきて染めると、こんな、上気したような、えもいわれぬ色が取れるのだ」
大岡信『言葉の力』(志村ふくみの桜染めの逸話より)
花の直前、樹がいちばん春を待っている時季の皮からしか、あの色は出ない。大岡はそこから、こう続けます。
「花びらのピンクは、幹のピンクであり、樹皮のピンクであり、樹液のピンクであった。桜は全身で春のピンクに色づいて、花びらはいわばそれらのピンクが、ほんの尖端だけ姿を出したものにすぎなかった」
大岡信『言葉の力』
私たちは、花びらの色だけを見て「桜色」と呼びます。けれど本当は、樹全体がその色を蓄えていて、花はその先端がわずかに顔を出したものにすぎない。表に見えている一枚の色の奥に、樹一本ぶんのいとなみがある。ものの「見えている部分」だけで判断していないか、と静かに問われるような話です。
色は「作る」のではなく「いただく」
だから志村ふくみの染めには、「こういう色を出したい」という発想が、そもそもありません。順序が逆なのだ、と彼女は言います。
「草木がすでに抱いている色のいのちを、私たちはいただいているのです」
志村ふくみ(染織をめぐる談話より)
色を人間が生み出すのではなく、植物のなかにすでにある色のいのちを、分けてもらう。この一言は、もの作りだけの話ではありません。良いものを「手に入れる」「所有する」と考えるか、「譲り受けて、生かす」と考えるか。後者の目でものを見ると、一つひとつを長く大切にしたくなります。暮らしの中のものとの向き合い方が、少し謙虚になる言葉です。
藍の一生は、人の一生に似ている
表題の「一色一生」には、一つの色と一生つき合う、という意味が込められています。とりわけ藍がそうです。藍は「建てる」と言い、甕(かめ)のなかで発酵させて育てる、生きもののような色です。若い藍は勢いのある青を、時を経た藍は深く落ち着いた青を出し、やがて力を使い切って澄んでいき、静かに終わっていく。その移ろいは、人の一生とどこか重なります。
ひとつの色を一生かけて見つめる――そう聞くと遠い世界の話のようですが、私たちの暮らしにも通じます。次々に新しいものへ乗り換えるのではなく、気に入った一つと長くつき合い、その変化ごと味わう。派手ではないけれど、いちばん豊かな時間の過ごし方かもしれません。
読むと、暮らしの「色」が変わる
SNSで流れてくる志村ふくみの一行も、美しいものです。けれどその言葉が生まれた一冊を通して読むと、点だった感動が線になり、身のまわりの見方そのものが少し変わります。器の釉薬(ゆうやく)の色、着るものの色、部屋に置く布の色。その一つひとつの奥に、どんな自然のいとなみがあるのか。志村ふくみの目を借りると、ものを選ぶ手が、静かに丁寧になっていきます。

次回の「目利きの本棚」は〈幸田文『台所帖』〉を予定しています。台所という一番身近な場所から、暮らしの所作を見つめ直す一冊です。

